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2020年7月5日  佐藤宏明 牧師

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

マタイによる福音書5章3~12節

この御言葉は有名な「八福の教え」と言われるものですが、人間常識に生きる現世的な人々にとっては真逆で理解できない教えであります。何故なら、この世では、貧しく、悲しみ、柔和で正義に生き、心の清い平和な人々は、生存競争の失格者と見なされているからであります。人類は心の内の傲慢な原罪の毒により、「権力と富を手に入れなければ幸いにはならない」と言う逆理を尊んでいるのです。

世界中で、強い者達の弱い者達への言われ無き差別と迫害が続いています。それは、人間存在の根本である原罪性の罪に気付こうとしないからであります。主イエス・キリストは、自分の内なる罪の病巣、汚れた権力欲や金銭欲、情欲、傲慢、偽善のこの世に、聖なる創造者の摂理の支配を打ち立てる為においでになりました。「心の貧しい人々は幸いである」とは、マタイ5:12「天にある報い」を信じる者達の「幸い」であり、現世的な「幸い」とは霊的な価値観が違うのであります。

主イエス・キリスト御自身も、同じ父なる神様を信じるユダヤ人の宗教家達から排斥され、妬まれ、殺されました。それでもなお神聖なる愛の神様は人類を救おうと愛の御手を差し伸べて下さっているのであります。その救いは、昔も今も、全て神様の業なのです。選民イスラエルはたえず不思議な神様の御業によって窮地から救い出されました。ユダヤ人達は自分達の宗教的な熱心さが正しい信仰だと考えて、人間を中心とする熱心教の偶像礼拝という過ちに陥っていったのであります。それは今日でも行われている過ちであります。主キリストも預言者達も、その様な人間的な熱心教の偶像信仰により殺されました。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

不義で不信仰な人間は、常に自分を自己正当化し、絶対化しようとして愛の摂理に逆らうのであります。イエス・キリストは昔も今も、「心貧しく、義に渇き、悲しむ」人の心に来て下さいます。そして信仰により「天の国」の希望に満たして下さるのです。

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